梅雨入りだそうだ。もう6月だから至極当たり前なのだが、わが輩はこの時節が嫌いだ。空はいつもどんよりしているし、湿度が高いので毛がべたべたして気持ち悪い。わが輩の毛並みは歳ほどは劣化していないのでまだつやがあるが、べたべたすると台無しで、いかにも老いさらばえたようになる。これが、暑くてもからっとした天気になると、毛並みが揃ってつやが出てくるから不思議だ。馬でも鶏でも、そしてわが輩たちイヌでも毛並みは大切だ。こんなことを思いつくままにうとうとしていたら、そこへ女あるじが干し物をもって現れた。
「クウちゃん、暑いしべとつくし、気持ち悪いでしょう。でも、これが日本の季節だからしょうがないわよね」とわが輩の頭から背中へかけて撫でた。わが輩は、思わず、「やめてけれ、毛並みが悪くなる」と吠えそうになったが、ぐっとこらえた。この家で女あるじを起こらせると、生きてはいけない。なにせ、三度三度ならぬ二度二度のおまんまを運ぶのは女あるじだからだ。居候犬としてはすこしは太鼓持ちをし、女あるじの無理難題もきいてやらねばならない。ちょうど、そこへ男あるじも出てきて、「エイアハ・アヒバ、エイアハ・アヒバ」と大声でがなりだした。わが輩はきょとんとして男あるじを見上げると、
「これはタヒチの言葉だ。どういう意味だと思うか」とわが輩に問うたので、「存じません、見当も付きません」と唸ると、
「エイアハ・アヒバとは働く無かれ、Don't workということのようだ。ひがな一日、恋人と一緒に木陰に座ってぼんやりと心に映りしことを、そこはかとなく思って過ごすような状態を言うらしい。傍らではネコも丸くなってうとうとしている。こんなけだるい、たるんだ、働く気もない、だらけた状態を指す。まさに怠惰な状態だ。しかしだ、こんな状態を怠惰と思わず、これこそ至福の人生の過ごし方だいうわけだ。考えてみれば、この怠惰な生き方こそおまえの過ごし方と同じだな」とつぶやきだした。
  わが輩は、あまりに蒸し蒸しするので男あるじも頭にきたのかと訝ると、そばで聞いていた女あるじが、
「クウちゃん、これはゴーギャンの描いた絵のことを言っているのよ。ついこの間、プーシキン美術館収蔵展覧会を見にゆき、この絵をいたく気に入ったらしいのよ」と手の内を明かした。男あるじは、
「ゴーギャンは、南仏アルルでゴッホと共同生活を試みるが、喧嘩して破綻し、楽園を求め、南太平洋(ポリネシア)にあるフランス領の島のタヒチに渡ったのは18914月のことであった。しかし、タヒチさえも彼が夢に見ていた楽園ではすでになかったという。一旦は8フランスに戻るが、1895年にはタヒチを再訪した。そして傑作『われわれはどこから来たのか われわれは何者かわれわれはどこへ行くのか』など多くの絵画を残した。『エイアハ・アヒバ』もそれに連なる絵画で、生活苦に悩まされたゴーギャンの理想とする生き方、日常の過ごし方が描かれているのかも知れない」と結んだ。
  確かに『エイアハ・アヒバ』に描かれているのは、わが輩の理想とする日常といってもよいだろう。もっともわが輩はいつも孤独だが。「働く無かれ」こそ生き方としては最高だ。生活のために働くなんて、労苦以外に何ものでもない。居候でも、食い扶持が保障されていれば、少しくらい媚びを売ってもへいちゃらだ。生きるとは働かないで食うことである。こんな世の中で、人間たちも暮らせるといいのにな。ワッハッハッハッ。

「あじさいや みなもの憂げに 雨が降る」 敬鬼

徒然随想

-エイアハ・アヒバ